アクセスマップ

プジョー長崎

住所〒859-0401
長崎県諌早市多良見町化屋1870
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TEL0957-27-2233

営業時間10:00-18:00 

定休日毎週水曜日、第1・第3火曜日 (但し、年末年始・GW・お盆期間は定休日以外にもお休みを頂く場合がございます)

アクセス方法*多良見IC・長崎バイパス(多良見)を出て諌早方面へ車で約5分。
もしくは諌早ICから、長崎方面へ車で10分。
(国道34号線沿い)

*JR喜々津駅から国道長崎方面へ徒歩5分。

*慈恵病院バス停

スタッフブログ

ライオンの記憶【フランス車の迷走・合併の時代 Vol.2】

[2008/12/19]L'avis du lion.【ライオンの囁き】   Club PN
ライオンの記憶【フランス車の迷走・合併の時代 Vol.2】
1974年、ルノー・プジョー共同会議の席で、プジョーは、ルノーに対して、シトロエンの買収を宣言。1977年に、10億フランといわれる政府借款を完済。様々な削減や効率を上げることにより、経済情勢が悪い中にありながら、シトロエンとの統合を成功と言えるところまでこぎつけています。

迷走を続ける時代。今回は、前回の続きとなります。

*前回をご覧になられていない方は右リンクよりご覧ください。
○ クライスラー・ヨーロッパの買収、そして、タルボの誕生

シトロエンとの統合は、成功したかに見えました。しかし、その展開としては必ずしも順風満帆とは言いがたいものでした。深刻な財政困難に陥っていたアメリカのビッグスリーの1つ「クライスラー」は、1978年8月に支配下に入っていたフランスのメーカー(シムカを含)、全ての欧州子会社の売却を決定します。フランスのメーカーが、外国(たとえば日本)のグループ傘下に入ると言う事が起こってしまいました。これは、プジョーが当時、もっとも危惧していた事態だと言えます。シトロエンの吸収が思ったほど難しくなかったプジョー(PSA)は、この危惧していた事態を先送りすることにより、クライスラーの欧州基地を買収することを決定しました。PSAグループが、世界第3位の生産台数を誇るメーカーになることを考えたからなのです。しかし、残念ながらその目論みが外れ、さらに国際経済が悪化する状況であったため、逆に大きな重荷となってしまっていました。

1978年当時、クライスラー・ヨーロッパの構成としては、3つの買収された会社(フランスのシムカ、イギリスのルーティズ、スペインのバレイロス)で、各社が複数の乗用車や営業車用ブランドを生産していました。しかし、ループ統合を行い始めたのにもかかわらず、1979年にP.S.Aが買収に踏み切りました。しかし、当時の状況としてイギリスの生産設備は、設計室が携わっていた計画は皆無といえるぐらい酷いもので、しかも3社の製品ラインは重複し、品質、販売網においても統一性に欠けた状態でした。さらに、買収したどのメーカーもグループ全体の主幹を担えるような国際的なネームヴァリューを持ったメーカーでは無く、その為、主幹争いにおいてイギリス人は、「サンビーム」を推しあくまで「シムカ」を拒否!イタリア人は「シムカ」を推し、スペイン人は、どちらも拒否するなど混沌とした状況になったそうです。

まったく同じ車種を、クライスラー、シムカ、サンビーム、アヴェンジャーなどの違った名前で、出し続けることは不可能な事である為、「シムカ」によって買収されていたメーカー「タルボ」を統一されたグループ名とするようになりました。

○ タルボ

1979年の第2次オイルショックと、その帰結であるヨーロッパ全体に及んだ景気の悪化などにより、イギリス、スペインやフランスでの会社の売買が盛んに行われています。
P.S.Aは、元クライスラーの3社の活動を調整、製造方法を統一し、P.S.Aグループの中に融合することが急務とされていました。しかし、米国人の首脳は、さっさとデトロイトへ帰国してしまいます。クライスラー首脳の残した原則としての英語の使用が、再建の障害となっていました。瀕死の状態にある3社を迅速に1つの組織を構成する事は殆んど不可能であり、イランで年間10万台を生産していた英国クライスラーはと言うと、イラン皇帝制の崩壊・イスラム革命により、大きな打撃を受ける事となり、その対応も必要となってしまいました。1980年秋頃、深刻な景気停滞の前に状況が悪化、そのため首脳陣は、P.S.Aグループ内で最大の利益を上げているオートモビル・プジョー社が、タルボを吸収するという必要性を検討するようになりました。

タルボの低迷が、プジョーにまで影響を及ぼすようになりましたが、プジョーの業績だけでは、この3社の損失をカバーするには不十分であり、この3社とプジョーとの間の補完性は、営業面では特に皆無ともいえる状態であったそうです。タルボ販売網には、プジョー販売網と比べると規模も小さく、資力も不十分。さらに巨額の負債をかかえているという状況でもあり、英国とスペインでは状況が好転したにもかかわらず、フランスの会社までカバーしきれるものではありませんでした。さらに、元クライスラー工場の英仏の労使関係も悪く、ポワッシーにおいては、激しいストライキが起こっています。
ライオンの記憶【フランス車の迷走・合併の時代 Vol.2】
○ プジョーの困難からの脱却

生産分野においても、この時代は、プジョーまでも、変更を余儀なくされるようになります。
その中で、ピニンファリーナの104オープンのプロジェクトをベースに開発された、オープンカーの「サンバ」があります。しかし、その一方で、次世代の205となるM24計画が1982年から、1983年へと1年延期されます。この205のM24計画を延期するのは、当時としては、大きなリスクを伴ったと言えるでしょう。と言うのは、この時のプジョーのニューモデルとしては、1979年の505以降、発表されておらず、104の販売台数が深刻に下降し始めていたからなんです。

205のスリーボディー派生モデルともいえる「309」が、この時誕生することになります。資金、時間も不足したため、205の前後のドアをそのまま利用することになり、この事がデザインの開発においてもより困難なものにしています。

プジョーは、合弁により、極度に動揺していた時代であり、プジョー・タルボとシトロエンの製品ラインアップも多くの空白、不景気を乗り切ることが困難を極めるという状態でした。そして、グループの経営トップとして迎えられたのが、ジャック・カルヴェです。ジャック・カルヴェは、断固としたリストラを敢行。その結果、数年後には、当初P.S.Aグループを深刻な危機に陥れたクライスラー・ヨーロッパの購入の成果が現れ始め、利益を生むようになってきました。さらに、フランスのポワッシーと同様、スペイン、英国でのプジョー販売網や生産工場も黒字を生むようになり、プジョー車も各国市場で10万台の販売台数に達するようになっています。



参考文献:
ロナルド・イルレ出版 「プジョー・ライオンの紋章」