1950年代末、シトロエンの将来に対し、危機感を持ったミシュランは、フィアットへシトロエンを売却することを検討します。この事は、プジョーにとって深刻な問題として捉えています。それは、崩壊を避けるために国際的視野を持たなければならないということを痛感させられたからだと言われています。
シトロエンがフィアットに買い取られるということになれば、プジョーにとっては、国内競合会社が1つ減るということになるが、国際市場で巨大なライバル会社が現れると言うことになり、プジョー首脳陣にとって、決して良いことではなかったからです。プジョー首脳陣は、'50頃からシトロエンとの合意が有利ではないかと考えていました。
プジョーの発注先であるミシュランの後押しがあったかどうかは判りませんが、シトロエンは、数回に渡り、ソショーの首脳陣と接触しています。その結果、1963年11月15日に協力に関する機密合意書が署名されています。最初の合意は、原材料・共通メカの購入に関するものでした。そして、その後には共通の機械部品製作のための会社(ソシエテ・オキシリエール・ドゥ・ファブリカシオン・オートモビル)を設立しています。しかし、シトロエンとマネージング・ディレクターのピエール・ベルコが、プジョー社の吸収を計った為、協力関係に関する合意が存続した一方で、1965年末には交渉が正式に決裂しています。そして、プジョーは、その後にはルノー社と様々な形で協力関係を結ぶことになります(1966年、機械部門についての合意など)。
一方、シトロエンはというと、状況は悪化の一途をたどります。そして、1968年10月には、フィアットとの協力関係を表明するコミュニケが発表されます。ミシュランの説得にもかかわらず、プジョーは、このことを政府に通告。ミシュランは、シトロエンの損益に非常に苦しめられていたこともあり、迅速に対応を迫られていたのも事実です。しかもフィアットがシトロエンを100%その傘下に吸収するつもりであることが明白になり、ミシュラン側はシトロエンとの話し合いを切に成功を願っていたものの、シトロエンの独自性が守られることをあくまで要求し、1972年にはついに交渉が決裂することになります。
その結果、シトロエンの財政状態は悪化をたどり、ついには1974年4月にミシュランは財政当局に5億フランの赤字を報告することになります。結果的には、シトロエンを売却する以外に方法が無くなります。その時の、唯一ともいえる買い手は、プジョーのみだったそうです。