しかし、作戦実行前にドイツ軍が降伏。予想外の早い降伏だった為、建造が間に合わなかったそうです。そこで、当時の伊-401の南部艦長へ別の作戦が言い渡されます。それは、「嵐」作戦といわれる「伊-400」と「伊-401」の晴嵐合計6機で、ウルシー環礁を攻撃するというものでした。狙いはもちろんアメリカ軍の空母でした。
伊-401は、1945年1月、佐世保港に初めて姿を現しました。巨大な大砲をもつこの潜水空母のあまりの大きさに驚愕したそうです。
そして、1945年7月20日、舞鶴港を出航し津軽海峡へ迂回し、ウルシー環礁へと向かいました。しかし、ウルシー環礁近海へ近づいた時、8月16日に終戦の連絡が「伊-401」入り、日本へと帰ることとなりました。その帰る途中に3機の羽を折りたたんだままの晴嵐を海へ射出廃棄しています。
しかし、8月29日金華山沖でアメリカ海軍の潜水艦に発見され、その監視のもと横須賀へ向かうことになりました。
その際、「軍艦旗を降ろし、星条旗を掲げよ!」とアメリカ海軍から指示をされています。
それは、乗組員はもとより、特に第一潜水隊総司令の有泉大佐には、耐えられない屈辱だったのでしょう。アメリカ軍監視のもと、横須賀港へ向かう途中、横一文字の軍刀と遺書を残し有泉大佐は自らの拳銃で命を絶ってしまっていました。
「太平洋なくしては、独立も存立も叶わぬ日本である。苦難の中にも日本の再建と発展をこの太平洋でいつまでも見守りたい。願わくは一番大きな軍艦旗とともにこの太平洋の底深く。」有泉大佐の亡骸は、アメリカ海軍に悟られぬように、軍艦旗で包み、その上に毛布でさらに包み、極秘で水葬されたそうです。花も何もない葬儀でした。
○ 日本の潜水艦の技術は、世界より20年ほど進んでいた!8月31日横須賀港へ入港。初めて見たアメリカ軍は、その大きさにたいへん驚いたそうです。
そして、伊-401を世襲したアメリカ海軍は1946年1月ハワイへ回航。
その後、4ヶ月ほど研究・調査したあと、この技術がソ連へ漏れることを恐れオアフ島沖で魚雷により撃沈処分したそうです。
アメリカ海軍の潜水艦発射式レギラス型飛行ミサイルは、この晴嵐を潜水艦から飛ばす原理を応用・転用して開発されたといわれています。また、潜水艦発射型弾道ミサイルの原型ともいわれています。
また、当時のアメリカ海軍の潜水艦における技術において、20年も日本の方が進んでいたと言われています。日本の技術が、アメリカ海軍の潜水艦技術の向上に大きく影響を与えたと言えるのではないでしょうか。
戦後60年を過ぎた今、私たちはどんなことを学んだんでしょうか。そんなことを今さらながら考えさせられました。