○ 崎戸町と炭鉱明治19年(1886年)、芋島の南2百間(約360m)沖あいの海底から鮑獲りの漁夫が1個の黒い燃える石を発見しました。そうです。この芋島の海底に炭層の露頭があったと確認されています。しかし、実際に崎戸鉱業発起組合が組織されたのは明治38年のことでした。翌39年に芋島海底の捜索を行い、厚さ20尺(約6m)、長さ数十間(十間≒18.181m)の露頭が角度6°で南西に傾斜しているのが確認されたのです。(崎戸町平島では文化4年(1807年)から僅かながら石炭の採掘は明治の初め頃までおこなわれていた記録があります)
三菱合資時代の明治44年に九州炭鉱汽船と三菱との関係は、三菱が同社に百万円を貸し付けてその石炭の委託販売契約を締結すると同時に九州炭鉱汽船の株式の約20%を所有したことにはじまるとのこと。
大正7年に三菱鉱業を設立。そして、昭和15年には九州炭鉱汽船との合弁が成立し三菱鉱業の直系の炭鉱となりました。
昭和11年に百万トンの炭出量を突破し長崎県を代表する炭鉱としての地位を固めました。戦時中は国家の要請にもとづいて、昭和18年には126万トンもの炭出量を記録するまでになったそうです。しかし、この炭鉱は当時、高島・端島と並んで「鬼が島」と呼ばれたこともあり、朝鮮人・中国人が強制連行されたところでもあったのです。
その後、第2次大戦後の混乱と産業全般に起こった停滞は石炭需要の減退を引き起こす結果となりました。昭和35年頃の日本の著しい好況局面から石炭業界も一時の小康状態となったものの炭鉱の運命を決定するスクラップアンドビルドの大方針は着々と進行していました。
昭和39年3月に正式に一抗が終堀し、その後、二抗だけの操業となった崎戸炭鉱は順調に採掘をしていたのだそうですが、調査の結果、採算可能の27,000tの月産高を維持できるのが昭和43年3月までと判断をすることになったのです。
そして、60余年の崎戸炭鉱の歴史は幕を下ろすことになりました。
*崎戸炭鉱は一坑(本坑)地区と二坑地区に大きく分かれています。初期から開発されていた大規模な一坑地区には最も古い福浦坑(後に三坑)と蠣浦坑(一坑)がありました(斜坑)。また島南部の一坑より規模が小さい二坑地区には浅浦坑があり、2基の鉄骨櫓が聳える深さ200m強の竪坑がありました。炭鉱全盛時は2万5千人も住んでいた崎戸町。
その当時は、人口密度日本一とまで言われ、娯楽施設が立ち並び、島という地理的条件に関わらず、生活に必要なもの全てが、すぐに手に入いる。そんな崎戸町には汗と涙と笑顔を共にし、日々を懸命に生きる人々の姿があったのです。
○ 崎戸町のもう一つの産業崎戸町には製塩工場というもう一つの大きな産業があります。現在の会社名は「ダイヤソルト株式会社」という名前になっています。
この工場は、三菱鉱業(株)崎戸鉱業所が産出する石炭と豊富な海水資源とを結びつけた製塩工場です。創業は昭和30年9月7日に設立されています。当時は塩田製塩法が広く行われていた中、崎戸の製塩工場では、海水直煮方式を採用。しかも、日本初の大規模機械製塩工場の誕生だったのです。炭鉱が閉山した後は、燃料を重油に切り替え、昭和47年にはイオン交換膜製塩方式に切り替え、国内製塩業のリーダーとして崎戸町を支える基幹産業となっています。また、生産途中に出来てくる蒸留水を崎戸町民に供給。島の水不足の解消へも役立っているのです。
次回は、崎戸町で見つけた面白いものをご紹介いたします。