パリ・ダカール・ラリーで圧倒的な強さを見せつけたプジョーは、次のプロジェクトをスタートさせていたのです。
その次のプロジェクトとは、スポーツカーの最高峰といわれる「ル・マン24時間耐久レース」だったのです。
その当時の代表格といわれるのはメルセデス・ベンツやジャガー、そして日本メーカーでは、ル・マンで唯一優勝経験('91年 チャージ・マツダ787B)を持つマツダ、そしてトヨタ(最高位2位)など各国のメーカー同士の戦いが行われていたWSPC(世界スポーツ・プロトタイプ・チャンピオンシップ)なんです。
今回は、ル・マンへのプジョーの挑戦をお話しします。
○ プジョー905
WSPCは、1991年から、3.5㍑自然吸気エンジンによって争うようになっていました。そこでPTSは、3499cc80°V型10気筒DOHC4バルブユニットを新設計。航空機製造会社「ダッソー社」製のカーボン製モノコック・シャーシーを採用し、1990年7月に「905」として誕生しました。
'91年からの本格参戦に控えテスト参戦を2戦行い、そして翌年'91年SWC(WSPCから改称、スポーツカー・ワールド・チャンピオンシップ)にいよいよフルエントリーを行いました。
その第1戦の鈴鹿では、なんとSWC初勝利を記録してしまいます。そして、6月、PTSが迎える初めてのル・マンは、序盤はいきなりトップをキープしていた905でしたが、残念ながら2台ともリタイアする結果に終わってしまいました。しかし、PTSとしては計画通りの事で、いきなり24時間を完走するのは無理と判断したPTSは、来年に向けてのデータ収集が目的だったのです。そして、データを得たプジョーは、新しいマシーンの開発に取りかかることとなりました。
そして完成したのが、905エボリューション1BISといわれるマシーンなんです。この新しい905は、大型のフロント・スポイラーを装着し、エンジンのパワーアップは勿論のこと、足回りの構造変更を加え、全く新設計といって良いほどの変更を加えていました。そして、満を持して迎えた「'92年のル・マン」は、プジョーにとって、最良の結果となりました。
序盤こそ、マツダ、トヨタとの激しいデッドヒートを繰り返しましたが、見事にこのデッドヒートを制し、ワーウイック/ダルマス/ブランデル組のナンバー1の905がトップでゴールを飾りました。
その後もこの年は易々と勝利を収め、メイクス・チャンピオンシップを手に入れたんです。しかし、翌年の'93年、FISAはエントリーが減少した事を理由にSWCをこの年限りにすると決定されてしまいます。
PTSは、WRCに続き、またもや戦いの場を失ってしまうことになってしまいました。(勝ちすぎなのか?どこが勝てば続けるんだろう?)
そのお陰で、開発が最終段階に入っていたエボリューション2は、幻のモデルとなってしまったのです。しかし、プジョー(PTS)は、有終の美を飾るべく、'93年の「ル・マン」に挑みました。その結果は、伝説ともいわれた“1-2-3フィニッシュ”です。
WRC、パリ・ダカール、そしてSWCと、参加した全て制覇してきた「プジョー・タルボ・スポール」。この年を以て、活動を終了することとなりました。そして、この事を受けて、監督のジャン・トッドはプジョーを去ることとなり、フェラーリF1に移籍することになってしまいました。その後、プジョーは、自動車界最高峰F1へとチャレンジすることになるのは、当時の誰も、全く予想出来なかったことでしょうね。