【モンスターWRカーPeugeot 205ターボ16】プジョー・タルボ・スポーツが結成された頃のWRCでは、アウディークアトロの4WDとターボチャージャーが一つの時代を形成しつつありました。そのアウディークアトロを止める事が出来るWRカーを造るため、ジャン・トッドは、当然ながらこのメカニズムを取り入れることとなりました。さらに、次代チャンピオンカーを造るため、パワーユニットをミッドシップ搭載とすることを決断しました。しかし、これに関しては、いかに社内で信用があったジャン・トッドといえども、すんなりとはOKが出るというものではありませんでした。それは、4WDとミッドシップを組み合わせるのは、あまりにもリスクが大きいとの判断がプジョー側にあったからなんです。さらに、当時のプジョーの社長であるボワローは、「新型ラリーカーは、開発中の205に似ていなければいけない」との要求もしていました。
そこで、ジャン・トッドは左右のドアと前後のウィンドー、ルーフの前部を205と共有しながら、リア部(Bピラーから後側)を取り去り、エンジンやギアボックスなどを入れ込みました。これが後に205ターボ16と呼ばれるモンスターマシーンとなったのです。
4気筒DOHC4バルブ1775ccで、KKK製ターボチャージャー、空冷インタークーラーを装備。最大出力350HP/8000r.p.m、5MTのギアボックスを通り、ファーガソン・システムに至り、4輪に分配するという、まさに「モンスターマシーン」へと進化を遂げたのです。
この205ターボ16は、当時のグループBの生産義務台数である200台を生産した後、'84年のツール・ド・コルスでデビューしました。PTSにとっては準備期間と位置付けたこの年のレースでは、準備期間であるにも関らず、3戦目の1000湖で初優勝。その後の最終戦のRACまで何と3連勝をマークしてしまいました。この時、プジョーの新たなる歴史が動き始めたのです。翌年の'85年には、当然ながら開幕戦のモンテ・カルロから3戦全勝。続くサファリでは残念ながらリタイア。また、第5戦ツール・ド・コルスでは各部に改良を施したエボリューション(450HP)を投入。優勝をのがしたものの第6戦のアクロポリスからニュージーランド、アルゼンチン、1000湖と続けて4連勝という快挙を成し遂げました。当然、圧倒的な速さと信頼性を持つプジョー205は、メイクス・チャンピオンとともに、ティモ・サロネンがドライバーズチャンピオンのダブルタイトルを獲得しました。
しかし、WRC敵なしを誇った205T16がこの年の最終戦において、同じミッドシップ4WDのランチアデルタS4が登場し、デビューウィンという快挙を成し遂げられてしまいます。しかも、翌'86年第1戦も優勝をさらわれ、圧倒的に強さを見せつけていたプジョー205T16に新たなライバルが出現したと言えるでしょう。
しかし、両者各1勝で迎えた第5戦のツール・ド・コルスにて、ランチア・チームが悲劇に襲われてしまいます。それは、ヘンリ・トイボネンのデルタS4が崖から転落し炎上。コ・ドライバー共々命を落とす結果となってしまいました。その事故を重く見たランチア・チームが途中で棄権することに。このこともあって、プジョーがこの年のダブルタイトルを獲得することとなりました。しかし、この事故はグループBの廃止まで話が発展し、翌年からの参加車輌規定であるグループAの車輌を持たないプジョー(PTS)は、この年限りでWRCを撤退することになってしまいました。