● レース用オートバイの製造1905年、プジョーは、最初のレース用オートバイを製造しています。このオートバイは、楕円形のガソリンタンクを取り付けた12馬力のオートバイで、後輪の上まで続くサドルのついた、サスペンションが無い大型モデルでした。このオートバイは、世界記録を2つも達成しています。その1つは、平坦の道路で、平均時速123.33km/hというもの。そして、もう1つは、坂道でも平均121.621kmというものです。その大記録は、プジョーエンジンの優秀さを外国に知らしめることになり、1907年に、プジョーは、英国でツーリスト・トロフィーを獲得しています。1910年には、「シクル・エ・オートモビル・プジョー」社を創立。今後のさらなる発展を約束するものとなりました。
● プジョーのオートバイレースでの活躍プジョーV2気筒エンジンのレースでの活躍は、第一次世界大戦勃発まで続けられていました。当時のパイロット「ラクロワ」は、1914年のパルク・デ・プランスのレース場で、プジョーマシンを勝利に導いています。しかし、インディアナポリスグランプリを勝ち取ることになるプジョーのレース用のエンジンを設計していたスイス人エンジニアの「アンリ」は、この頃からすでに新しいタイプのエンジンを模索していたそうです。オートバイエンジンの改良を考え、現在のエンジンの元祖「バーチカル・ツインエンジン」を1913年に開発することとなりました。ツインヘッドギア・カム、4バルブ/4独立マニフォールド、マルチディスク・エアクラッチなど、当時としては凌駕したレベルの技術が盛り込まれています。これら一連の技術の進歩により、前ブレーキ無し、後ろサスペンション無し、タコメーター無しの車が実現されました。この車は、モンタルジのMCFグランプリで優勝を飾るなど極めて優秀なものでした。しかし、大戦の勃発により残念ながら、中断されてしまいます。
その後、シングルシャフトカム、ダブルバルブシリンダー、ドロップ式からオイルポンプ式油注入にかわったまったく新しいコンセプトエンジンによるレース用オートバイへと変って行きました。1923年のことです。最初のレース参加から、この新しい500ccエンジン車のパイロットまであったペアン、ジラールやリシャールなどは、驚くべき勝利を手にしています。それは、1キロスタートクロで平均時速124km/h、リヨンのグランプリ、MCFグランプリ、マルセイユグランプリ、スペイングランプリ、スイスグランプリまたはモンザのグランプリ・デ・ナシオンでも勝利しました。また、このオートバイの750ccエンジンでは、ペアンが1925年に平均時速166kmの世界記録を樹立しています。
● レースと大量生産用オートバイオートレースと平行して、プジョーは「大量生産用オートバイ」も積極的に進出しています。1921年に発表された「ツーリズム・オートバイ」の多くは、一般的なもので、プジョーの生産していた「シクロ・モト」は、明らかに別格であったと言えるでしょう。何はともあれ、誰もがらくらくとスピードを出すことが出来る時代になったと考えられます。
この技術の発展において、自転車産業にとって深い影響を与え、自転車産業の成熟期?の到来を招来する原動力となったことには間違いありません。
1926年、シクル・エ・オートモビル社は、オートモビル・プジョー社とシクル・プジョー社の2社に独立編成されます。シクル・プジョー社では、すでに世界市場での3大メーカーとして君臨していました。(フランス市場25%を占めています)そして、自転車モデルの大幅な変更を行うこととなり、一般消費者の要求を満たすべく、「高品質な製品の製造する」ということが会社の使命であるとしています。1930年には45秒毎にプジョーの工場ラインから自転車が1台製造されるようになり、子供用から「ツール・ド・フランス」タイプのレース用自転車など様々なニーズに合わせた自転車を製造しています。
ちょうどこの頃から、オートバイの全てのモデルに「P」で始まっている番号のモデル名が付けられています。
次回は、Pから始まるモデルから現代までの歴史をご紹介します。