アクセスマップ

プジョー長崎

住所〒859-0401
長崎県諌早市多良見町化屋1870
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TEL0957-27-2233

営業時間10:00-18:00 

定休日毎週水曜日、第1・第3火曜日 (但し、年末年始・GW・お盆期間は定休日以外にもお休みを頂く場合がございます)

アクセス方法*多良見IC・長崎バイパス(多良見)を出て諌早方面へ車で約5分。
もしくは諌早ICから、長崎方面へ車で10分。
(国道34号線沿い)

*JR喜々津駅から国道長崎方面へ徒歩5分。

*慈恵病院バス停

スタッフブログ

プジョー二輪車の歴史 Vol.1

[2008/09/15]L'avis du lion.【ライオンの囁き】   Club PN
プジョー二輪車の歴史 Vol.1
Peugeot Bicycle

プジョー家は、15世紀頃から、フランス東部、スイスとの国境近くドゥー県モンベリアールで、水車屋を営んでいました。

1810年、ジャン・ピエール・プジョー2世が冷間圧延工法による鋼鉄造りに成功し、製鉄工場へと進化を遂げています。そして、1880年代になると“Les Fils de Peugeot Fre'res”(プジョー兄弟の息子たち)という名の会社を設立し、1882年 プジョーが初めて“LE FRANCAIS”という自転車をこの世に送り出しました。これが、プジョーの自転車の歴史の始まりです。

プジョーの二輪車の歴史について4日間に渡りご紹介して参ります。
プジョー二輪車の歴史 Vol.1
● アルマン・プジョーと自転車との出会い

巨大な前輪、小さな後輪。その、直径の異なる二つの車輪に、ハンドルレバーブレーキ、フロントハブに固定されたペダルの写真を、誰しも見たことがあることでしょう。そんなユーモラスなデザインの自転車は、そんなに昔ではなく、100年ほど前のことです。

アルマン・プジョーは、青年時代にプジョー社のエンジニアとして英国に留学しています。その時、新しい交通手段である自転車技術に出会い、自転車の開発に熱中していきます。フランスに帰国して2年後の1873年、社長を務めていたアルマンの父エミールが死去し、代わりに叔父であるジュールとその息子のウジェーンが後を継ぐことになります。その為、アルマンは、この2人から自転車造りは“反対”を受けてしまったんです。自転車という当時未知の世界に挑むのは、“無駄”とこの2人は考えていました。しかし、アルマンは諦めず、ねばり強く彼らを説得し、実に12年もかかって、やっと自転車の製造をするところまでこぎつけています。


● 「Les Fils de Peugeot Fre'res」(プジョー兄弟の息子たち)

1880年代に“ Les Fils de Peugeot Fréres ”(プジョー兄弟の息子たち)という名の会社を設立し、1882年 プジョーが初めて“ LE FRANCAIS ”という自転車をこの世に送り出しています。直径の異なる二つの車輪、ハンドルレバーブレーキ、フロントハブに固定されたペダル。奇妙な形に高いサドルのついたこの自転車は、プジョーの他の製品と比べ、多分に奔放なデザインが特徴と言えます。そして、1885年には、ボーリュー工場が、現在の自転車に近い形である足けり式自転車の製造を開始しました。スチールチューブの初歩的な組み立てを約300人の従業員によって行われていました。そして、1889年の万国博覧会において、「ライオンマーク」の自転車は、新しい時代にふさわしい物として、デビューすることになったそうです。


● 自転車の発達

ダンデム3輪車1889年1889年にダンデム三輪車、1892年に初めて空気タイヤを装備したレース用自転車、1899年には、レース用5人乗り自転車、自転車の車輪を利用したスチールパイプ製の繋駕競争用二輪車など、いろんな種類の自転車が考案、開発されています。

折りたたみ自転車1900年「アカテン」と呼ばれたピニヨン式チェーンレス自転車、ジェラール大尉の発明による折りたたみ式自転車などは、フランス軍の多くの師団に配備されることとなりました。「ポンプブレーキ」のように、ハンドルの上につけられた梨状のゴム袋を押して、空気ポンプを作動させるものまで登場しています。

*空気入りタイヤは、1845年にトムソンによってイギリスの特許が取得されてます。しかし、ほとんど採用されることは無かったそうで、1888年にイギリスの獣医「ダンロップ」によって自転車用の空気入りタイヤの特許が申請され、翌1889年認可されています。


● 自転車レース

当初の自転車は、ペダル1回転で5m22cmも進むギア比1の自転車でした。しかし、12kmもの自転車レースともなるとレーサー達は、相当なトレーニングを必要とし、自転車も小石だらけの道に耐えるものでなければならなかったそうです。その点、プジョーの自転車は、たいへん優秀なもので、1894年には「パリ=ボルドー」「パリ=サン・マロ」「パリ=バー・ルデュック」などのレースや、50km、100km一般道路レースなどで、次々と記録を打ちたてるなどあらゆる大レースで勝利を納めました。


● ウジェーヌ・プジョーと自転車製造部門の再編成

レースでの華々しいプジョーの活躍の陰では、アルマン・プジョーは兄弟経営のプジョー社から離れ、オダンクールにオートモビル・プジョー社を創立していきます。よって、自転車製造はウジェーヌ・プジョーが経営していくことになります。ウジェーヌ・プジョーは、動力車のたえまない発達を見て自動車産業の将来の発展を感じていました。そして、ウジェーヌは、自転車製造部門を再編成することを決断します。従兄弟のアルマンの活動を邪魔しない為、ボーリュー工場で製造されていた二輪車と三輪車にエンジンを装備することにしています。1890年にアルマン・プジョーは、四輪車をつくり、ダイムラーのエンジンを積みました。しかし、それと同じことをウジェーヌも行っています。事実、ヴァランチニェイ工場のプジョー兄弟社では、工具類と自転車は製造していましたが、エンジンは作られていませんでした。1898年に製造された最初の三輪車にはディオンとブートンのエンジンをつけると、同時にプジョーは独自のエンジン開発も始めて行きます。1899年には三輪車、1900年には最初の四輪車に装備されています。

● オートバイの誕生

ダンデム3輪車1889年最初のプジョー製「オートバイ」の先祖、1.5馬力の単気筒エンジンをつけた自転車が1902年に発表されています。スタート時以外は力をいれずとも時速25㎞から40㎞のスピードで走ることが出来たそうです。プジョーはこれを「モータービシクレット」と呼び、自転車と同じように、二種類の違った高さのフレームが用意されていました。当時のモータービシクレットは、サスペンションはおろか、クラッチ、ギアボックスも無く、トランスミッションは撚り皮ベルトでなされ、自動吸気弁エンジン、電池及びコイルによる点火、単純なガス吹き込みキャブレターは、驚くことにガソリンタンクの中につけられていました。


次回は、「時代はオートバイへ」へ続きます。