アクセスマップ

プジョー長崎

住所〒859-0401
長崎県諌早市多良見町化屋1870
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TEL0957-27-2233

営業時間10:00-18:00 

定休日毎週水曜日、第1・第3火曜日 (但し、年末年始・GW・お盆期間は定休日以外にもお休みを頂く場合がございます)
※5/1(水)、5/4(土)~5/8(水)はゴールデンウィーク休業とさせていただきます。

アクセス方法*多良見IC・長崎バイパス(多良見)を出て諌早方面へ車で約5分。
もしくは諌早ICから、長崎方面へ車で10分。
(国道34号線沿い)

*JR喜々津駅から国道長崎方面へ徒歩5分。

*慈恵病院バス停

スタッフブログ

日本のウィスキー

[2010/01/06]L'avis du lion.【ライオンの囁き】   Club PN
日本のウィスキー
日本のウィスキーの父といえば、ニッカウヰスキーの創設者である 竹鶴 政孝 氏という方です。

ならば、そのニッカウヰスキーが日本で初めてウィスキーか?というと、そうではないようです。

そんなウィスキーをちょっと調べてみることにしました。
日本のウィスキー
日本初の本格ウィスキーというと、ニッカでは無く、寿屋から「白札」というもので、1929(昭和4年)に売り出されています。

この寿屋は今でいうと「サントリー」ということになります。サントリーという社名は初期の主力商品である「赤玉」が太陽のようだということで「サン」。寿屋の創設者の方のお名前が「鳥井信次郎」氏だったので、そこから「トリイ」をくっつけて「サントリー」という名前になったそうな。。。
日本のウィスキー
では、なぜ?竹鶴政孝氏が日本のウィスキーの父と呼ばれているのでしょうか?

竹鶴政孝氏は1918年から3年間、ウィスキーの製造技術を学ぶためにスコットランドのグラスゴー大学に留学。そして、第一次世界大戦後でも売れ行きが好調だった「赤玉ポートワイン」の寿屋の創設者である鳥井氏が竹鶴氏を会社に招き入れ、責任者として京都の山崎に蒸留所を建設しウィスキー(白札)造りを始めたそうです。そして、1934年に退社し、同年に「大日本果汁」という会社を設立しています。

この大日本果汁という会社は、竹鶴氏がウィスキー造りに最適な場所として北海道・余市に蒸留書を構え、ウイスキー製造が軌道に乗るまでジュースの製造販売を行うためにつけた名前だそうで、ここから、「ニッカ」という名前になったんだそうです。

こういうところからみると、最初に日本での本格ウィスキーを販売したのはサントリーで、作ったのは竹鶴氏ということになるようです。
日本のウィスキー
しかし、ウィスキーが実際に日本で流行ったのは皮肉にも竹鶴氏がサントリーを退社してから。。。

その大ヒット商品が1934年(昭和12年)の「角瓶」。

まあ、どちらにしても、この竹鶴氏と鳥井氏の両雄が居なかったら日本のウィスキーの誕生はかなり遅くなったということは間違いがありませんね。



*赤玉ポートワイン

サントリーの赤玉ポートワインは、今では赤玉スィートワインとなっています。これは、1973年にポルトガル政府から「ポートワイン」とは、ポルトガル産ワインのみに許された名前だというクレームがついた為、スィートワインと名前を変更したというエピソードもありました。