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プジョー長崎

住所〒859-0401
長崎県諌早市多良見町化屋1870
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TEL0957-27-2233

営業時間10:00-18:00 

定休日毎週水曜日、第1・第3火曜日 (但し、年末年始・GW・お盆期間は定休日以外にもお休みを頂く場合がございます)

アクセス方法*多良見IC・長崎バイパス(多良見)を出て諌早方面へ車で約5分。
もしくは諌早ICから、長崎方面へ車で10分。
(国道34号線沿い)

*JR喜々津駅から国道長崎方面へ徒歩5分。

*慈恵病院バス停

スタッフブログ

為になるの?こんな雑学!【 潜水空母 】

[2009/05/26]L'avis du lion.【ライオンの囁き】   Club PN
為になるの?こんな雑学!【 潜水空母 】
以前の別サイトにてご紹介した「潜水空母」。今回はその記事のリニューアル記事です。


太平洋戦争末期、日本の最後の希望を乗せて、戦艦大和は出撃した!と言うのは、誰でも知っていますよね。太平洋戦争で日本は巨大な不沈艦とも言われた武蔵・大和を竣工させています。

しかしその時、「世界最高技術で作られた世界一巨大な潜水空母が日本に存在していた!」ということを知っている方は、果たしてどれくらいいるんでしょうか?その潜水空母は、世界のどの国も造れない潜水艦と言われてました。しかし、日本のありったけの技術を投入し、潜水空母『伊-400型』や『伊-14』を竣工したのです。

その内、『伊-401』は、2005年3月 戦後60年経って、ハワイ オアフ島沖の約800mの海底で発見されたのです。発見者は、ハワイ大学海洋調査研究所のジョン・ウィルシャー教授。


しかし、なぜ?こんな所にに沈んでいたのでしょうか?


今回は、悲劇の潜水空母「伊-401」に焦点を当ててご紹介したいと思います。
為になるの?こんな雑学!【 潜水空母 】
○ 伊-401

日本が、太平洋戦争末期に極秘任務を受けて造られた「特殊攻撃機【晴嵐】3機」を搭載する世界で類を見ない世界最初で最後の潜水空母「伊-400型」です。太平洋戦争時に、世界のどの国も失敗して造るのを諦めた潜水空母を日本は完成させていたのです。通常型の潜水艦としては、現在においても世界最大の大きさです。全長122m、全幅12m、高さ15mと馬鹿でかいものでした。当時、米国の大型潜水艦のガトー級で、全長95m。ドイツのUボートⅦ型が66mといえば、その「伊-401」がいかに大きかったのかが解ると思います。

*原子力潜水艦では(タイフーン級) ロシア・941型 全長172.8mが最大
為になるの?こんな雑学!【 潜水空母 】
格納庫この潜水空母「伊-401」は、特殊攻撃機【晴嵐】を3機搭載されており、その晴嵐は組み立て式でした。

浮上した潜水艦の格納庫から、羽を折りたたんだ晴嵐を引き出し、主翼、尾翼を組み立て、さらにフロートと付け、空気圧を利用した射出機カタパルトで射出されます。

なんと、3機を組み立て、射出するまでなんと15~16分しかからなかったそうです。(潜水艦は、海上に浮上した時は、ほとんど無防備状態となるため、早く潜りたかったためだと推測できます)
為になるの?こんな雑学!【 潜水空母 】
○ 最初の目的~極秘任務の遂行

潜水空母を作った目的として、世界第2次大戦の作戦にあります。これは、ヨーロッパ戦線でドイツ軍が壊滅すると、大西洋にいるアメリカ艦隊が、パナマ運河を通り、一挙に太平洋へ進出してくることを想定した日本海軍がその通路となるパナマ運河を爆破することを計画していたそうです。その時、元海軍大尉浅村飛行隊長は、晴嵐にフロート(着水脚)無しで800kgの爆弾を積み特攻を決意していたそうです。
為になるの?こんな雑学!【 潜水空母 】
しかし、作戦実行前にドイツ軍が降伏。予想外の早い降伏だった為、建造が間に合わなかったそうです。そこで、当時の伊-401の南部艦長へ別の作戦が言い渡されます。それは、「嵐」作戦といわれる「伊-400」と「伊-401」の晴嵐合計6機で、ウルシー環礁を攻撃するというものでした。狙いはもちろんアメリカ軍の空母でした。

伊-401は、1945年1月、佐世保港に初めて姿を現しました。巨大な大砲をもつこの潜水空母のあまりの大きさに驚愕したそうです。

そして、1945年7月20日、舞鶴港を出航し津軽海峡へ迂回し、ウルシー環礁へと向かいました。しかし、ウルシー環礁近海へ近づいた時、8月16日に終戦の連絡が「伊-401」入り、日本へと帰ることとなりました。その帰る途中に3機の羽を折りたたんだままの晴嵐を海へ射出廃棄しています。

甲板1しかし、8月29日金華山沖でアメリカ海軍の潜水艦に発見され、その監視のもと横須賀へ向かうことになりました。

その際、「軍艦旗を降ろし、星条旗を掲げよ!」とアメリカ海軍から指示をされています。

それは、乗組員はもとより、特に第一潜水隊総司令の有泉大佐には、耐えられない屈辱だったのでしょう。アメリカ軍監視のもと、横須賀港へ向かう途中、横一文字の軍刀と遺書を残し有泉大佐は自らの拳銃で命を絶ってしまっていました。


「太平洋なくしては、独立も存立も叶わぬ日本である。苦難の中にも日本の再建と発展をこの太平洋でいつまでも見守りたい。願わくは一番大きな軍艦旗とともにこの太平洋の底深く。」

有泉大佐の亡骸は、アメリカ海軍に悟られぬように、軍艦旗で包み、その上に毛布でさらに包み、極秘で水葬されたそうです。花も何もない葬儀でした。


○ 日本の潜水艦の技術は、世界より20年ほど進んでいた!

8月31日横須賀港へ入港。初めて見たアメリカ軍は、その大きさにたいへん驚いたそうです。

そして、伊-401を世襲したアメリカ海軍は1946年1月ハワイへ回航。

その後、4ヶ月ほど研究・調査したあと、この技術がソ連へ漏れることを恐れオアフ島沖で魚雷により撃沈処分したそうです。

アメリカ海軍の潜水艦発射式レギラス型飛行ミサイルは、この晴嵐を潜水艦から飛ばす原理を応用・転用して開発されたといわれています。また、潜水艦発射型弾道ミサイルの原型ともいわれています。

また、当時のアメリカ海軍の潜水艦における技術において、20年も日本の方が進んでいたと言われています。日本の技術が、アメリカ海軍の潜水艦技術の向上に大きく影響を与えたと言えるのではないでしょうか。


戦後60年を過ぎた今、私たちはどんなことを学んだんでしょうか。そんなことを今さらながら考えさせられました。