アクセスマップ

プジョー長崎

住所〒859-0401
長崎県諌早市多良見町化屋1870
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TEL0957-27-2233

営業時間10:00-18:00 

定休日毎週水曜日、第1・第3火曜日 (但し、年末年始・GW・お盆期間は定休日以外にもお休みを頂く場合がございます)

アクセス方法*多良見IC・長崎バイパス(多良見)を出て諌早方面へ車で約5分。
もしくは諌早ICから、長崎方面へ車で10分。
(国道34号線沿い)

*JR喜々津駅から国道長崎方面へ徒歩5分。

*慈恵病院バス停

スタッフブログ

長崎の名所!迷所?【西海市大島・崎戸③】

[2008/12/08]L'avis du lion.【ライオンの囁き】   Club PN
長崎の名所!迷所?【西海市大島・崎戸③】
先日ご紹介した煙突の疑惑解明の後、せっかく来たのだからちょっと観光を。。。って感じで、いろいろと崎戸町のことを調べてみることにしました。

近くに歴史民俗資料館なるものがありました。
ここでは、崎戸町の歴史や文化に触れることができます。

歴史資料館前の油倉庫跡その資料館の入口で迎えてくれたのが、入口脇に残る「油倉庫跡」。
現在は封鎖されているものの中部の施設はそのまま残っているとのこと。

戦中には油も貴重な物資だったため、厳重な保管庫が用意されたそうです。

そして、いざ!歴史民俗資料館へ!

有料かな?と思っていると玄関に立札。入館無料の表示がありました。ならば、迷わずGO!ってな感じでしたね。(笑)

その資料館には崎戸町の歴史がありました。当然ですが。。。笑。

その歴史民俗資料館にあった説明文をもとにご紹介たいします。
長崎の名所!迷所?【西海市大島・崎戸③】
【 西海市崎戸町 】

○ 崎戸町と捕鯨

崎戸町の歴史が大きく変わったのは、寛永年間(1630年~)の鯨組の進出からなんだそうです。

崎戸、蛎浦、江島、平島がその基地となり、*鯨組と島の人々は共に働いたそうです。西海の一寒村から、巨鯨に湧く捕鯨基地への飛躍により、崎戸は大きく華やかな時代へと転身を遂げることとなります。

*鯨組とは?
近世初頭から確立したといわれる捕鯨業の経営単位のことだそうです。当初から大きな資力と労働力を必要とする為、鯨組が成立したと考えられているそうです。捕鯨業は、近世初頭に確立したそうなんですが、当初の捕鯨法は銛突法(鯨をみつけると、鯨を十艘前後の船で囲み、数十本の銛を打ち込んで鯨を弱らせ、最後に麻繩をつけた大銛を打ち込み、船に引き寄せるというもの)で、この経営は1606年(慶長11)に紀州太地の和田忠兵衛によると言われています。当時この経営単位は突組と称されていて、銛突法は、東は安房から西南日本の紀州・土佐・長門・肥前・壱岐・対馬でも行われており、千葉・石川県などのように、明治時代初期まで行われていたところもあります。

鯨組 銛その崎戸の捕鯨は大村領の捕鯨の始祖と言われ、寛永8年(1613年)に深澤儀太夫勝清によってはじめられました。
その後は、深澤家が代々受け継ぎ、文久元年(1861年)江島捕鯨が廃絶するまでの約230年の長きに渡り崎戸の捕鯨で大きな賑わいをみせていたそうです。

当時の捕鯨のやり方はというと、ドラを鳴らし、船を操り、鯨の背に乗って銛を突き立て鯨を仕留めていました。その鯨を持って港へ帰ったら解体作業を村人が総出で行っていたそうなんです。そして、その夜は大漁祝い!って感じでしょう。

なんとも活気ある村が容易に想像できますね。
長崎の名所!迷所?【西海市大島・崎戸③】
○ 崎戸町と炭鉱

明治19年(1886年)、芋島の南2百間(約360m)沖あいの海底から鮑獲りの漁夫が1個の黒い燃える石を発見しました。そうです。この芋島の海底に炭層の露頭があったと確認されています。しかし、実際に崎戸鉱業発起組合が組織されたのは明治38年のことでした。翌39年に芋島海底の捜索を行い、厚さ20尺(約6m)、長さ数十間(十間≒18.181m)の露頭が角度6°で南西に傾斜しているのが確認されたのです。(崎戸町平島では文化4年(1807年)から僅かながら石炭の採掘は明治の初め頃までおこなわれていた記録があります)

炭鉱 用具三菱合資時代の明治44年に九州炭鉱汽船と三菱との関係は、三菱が同社に百万円を貸し付けてその石炭の委託販売契約を締結すると同時に九州炭鉱汽船の株式の約20%を所有したことにはじまるとのこと。
大正7年に三菱鉱業を設立。そして、昭和15年には九州炭鉱汽船との合弁が成立し三菱鉱業の直系の炭鉱となりました。

炭鉱 用具昭和11年に百万トンの炭出量を突破し長崎県を代表する炭鉱としての地位を固めました。戦時中は国家の要請にもとづいて、昭和18年には126万トンもの炭出量を記録するまでになったそうです。しかし、この炭鉱は当時、高島・端島と並んで「鬼が島」と呼ばれたこともあり、朝鮮人・中国人が強制連行されたところでもあったのです。
その後、第2次大戦後の混乱と産業全般に起こった停滞は石炭需要の減退を引き起こす結果となりました。昭和35年頃の日本の著しい好況局面から石炭業界も一時の小康状態となったものの炭鉱の運命を決定するスクラップアンドビルドの大方針は着々と進行していました。

昭和39年3月に正式に一抗が終堀し、その後、二抗だけの操業となった崎戸炭鉱は順調に採掘をしていたのだそうですが、調査の結果、採算可能の27,000tの月産高を維持できるのが昭和43年3月までと判断をすることになったのです。

そして、60余年の崎戸炭鉱の歴史は幕を下ろすことになりました。

*崎戸炭鉱は一坑(本坑)地区と二坑地区に大きく分かれています。初期から開発されていた大規模な一坑地区には最も古い福浦坑(後に三坑)と蠣浦坑(一坑)がありました(斜坑)。また島南部の一坑より規模が小さい二坑地区には浅浦坑があり、2基の鉄骨櫓が聳える深さ200m強の竪坑がありました。


炭鉱全盛時は2万5千人も住んでいた崎戸町。

その当時は、人口密度日本一とまで言われ、娯楽施設が立ち並び、島という地理的条件に関わらず、生活に必要なもの全てが、すぐに手に入いる。そんな崎戸町には汗と涙と笑顔を共にし、日々を懸命に生きる人々の姿があったのです。



○ 崎戸町のもう一つの産業

崎戸町には製塩工場というもう一つの大きな産業があります。現在の会社名は「ダイヤソルト株式会社」という名前になっています。

煙突のある製塩工場(旧福浦発電所)この工場は、三菱鉱業(株)崎戸鉱業所が産出する石炭と豊富な海水資源とを結びつけた製塩工場です。創業は昭和30年9月7日に設立されています。当時は塩田製塩法が広く行われていた中、崎戸の製塩工場では、海水直煮方式を採用。しかも、日本初の大規模機械製塩工場の誕生だったのです。炭鉱が閉山した後は、燃料を重油に切り替え、昭和47年にはイオン交換膜製塩方式に切り替え、国内製塩業のリーダーとして崎戸町を支える基幹産業となっています。また、生産途中に出来てくる蒸留水を崎戸町民に供給。島の水不足の解消へも役立っているのです。


次回は、崎戸町で見つけた面白いものをご紹介いたします。