アクセスマップ

プジョー長崎

住所〒859-0401
長崎県諌早市多良見町化屋1870
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TEL0957-27-2233

営業時間10:00-18:00 

定休日毎週水曜日、第1・第3火曜日 (但し、年末年始・GW・お盆期間は定休日以外にもお休みを頂く場合がございます)

アクセス方法*多良見IC・長崎バイパス(多良見)を出て諌早方面へ車で約5分。
もしくは諌早ICから、長崎方面へ車で10分。
(国道34号線沿い)

*JR喜々津駅から国道長崎方面へ徒歩5分。

*慈恵病院バス停

スタッフブログ

プジョーが開放された時

[2008/09/22]L'avis du lion.【ライオンの囁き】   Club PN
プジョーが開放された時
プジョーの歴史的に見ても、これほど苦しんだ時代は無かったのではないでしょうか?

それは、世界第二次大戦によりプジョー社は破局に近い状態に追い込まれていました。

「そして、歴史は動いた!」どこかの番組みたいですね。

今回は、プジョーの戦後をご紹介します。

ちょっと長い記事となってしまいました。
よろしくお付き合いください。
プジョーが開放された時
プジョーは、第二次世界大戦中に深刻な状況に追い込まれていました。それは、戦時中フランスの産業界の殆んどがドイツ軍などの占領下にあったためなんです。その為プジョーの本拠地「モンベリヤール地方の工場」も大打撃を受けることとなってしまいました。なぜならパリ近郊の大部分の大企業とは違い、ドイツ軍とプジョーの関係は厳しい状況下にあり、プジョーの経営本部がパリから数百キロも離れたところにあったことも大きな原因のひとつとなっていたからなんです。


○ 第二次世界大戦のプジョー社

ソショーの町と工場は1943年7月16日に連合軍の空襲を受け、120人の死者、250人の負傷者を出すと言う惨事に見舞われます。しかし、ドイツ人の抑圧は増す一方。その為、1938年には14,657人の従業員が働いていたプジョーでは、1943年には8,000人、1944年には約6,000人にまでなってしまいました。ドイツの捕虜釈放処置(ドイツに3人の労働者を送ると1人の捕虜が釈放されるというもの)のような異常なシステムが従業員の減少に拍車をかけ、人々の心までも影響を与えてしまう結果となりました。その為、サボタージュやレジスタンス活動が活発となり、それに対抗するかのようにドイツ軍が週54時間に達する過酷な労働時間を強制するという報復措置がとられ、従業員が拒否するとドイツ軍の報復と暴力が横行するなど関係は泥沼と化していったのです。工場では44人が銃殺。200人が強制移送。多くの会社経営メンバーが逮捕され、その中の4人が強制収容所で死亡しています。

1943年初め頃にプジョーの経営はドイツ軍の手に移されフォルクスワーゲンの傘下とされています。そして、VW派生モデル「クベルワーゲン軍用車」と「アフリカ部隊用のフォード型トラック」の製造を命じています。実現はしなかったことですがフェルディナント・ポルシェ自身も製造ライセンスの無料譲渡を提案しています。徒刑囚の監視人のような人間が工場を徘徊するような動乱の激しい時代だったといえるでしょう。


○ 最悪の時代

プジョーは占領時代から生産再開をするための原材料である「戦争の宝」とも言えるスチール板(5,500トン)やスチール(4,300トン)、鋳鉄(720トン)、非鉄類(117トン)などをを保管していました。しかし、戦後のどさくさの中で全て奪われ回収することが出来なかったのです。

1944年9月6日。フランス軍の前衛部隊がエリモンクールに近づいたことが知らされると工場は全て中断。石油補充の欠如の為、解放軍は11月中頃まで前進することができず工場が完全に10週間もの間、隔離されてしまう事態となります。その空きに工場から機械(1,545台)や原材料などをドイツの列車に満載し盗み出されてしまったのです。戦後ドイツに送られたプジョーの回収派遣団は、主にメルセデスやVW工場にあった盗まれた機械の回収に長い時間を費やしています。また、ドイツにあったプジョーの機械が、ルノーやその他のフランスのメーカーに回収されたものもありさらに回収が困難になって行ったのです。
その為、ソショー工場は完全な貧窮状態に陥り戦後の1945年9月まで生産を開始することが出来ませんでした。シトロエンはその頃には戦前の13%まで回復していたにもかかわらず・・・。また、ソショーは月産1000台の稼働率まで到達するのに1946年の3月までもかかってしまう結果となったのです。


○ プジョーの「その時歴史が動いた

プジョーが回復するには「労働力」の確保が急務とされていました。
しかし、モンベリヤール地方が主に1944年秋に非常に大きな戦争被害を受けたことや深刻な住宅危機が加わって新たな労働力を迎えることができませんでした。(30年代末(15,500人)と同等の労働者数を確保するのに1956年までかかっています。)その為、プジョー社自身が住宅建設の政策をとることとなりますが、大きな負担となっています。しかし、1947年には従業員の33%の住宅を提供、工場周辺の50kmに送迎バスシステムを設け、85のバス定期路線を設置するなど積極的な政策を打ち出しています。しかし、この支出は1946年で工場の売上高の0.3%に達するほどでした。

Peugeot202政府の5ヶ年計画に関する論議の後、プジョーは6/8CV分野において有利な立場を得ることになります。
さらに、当時のソショーの唯一のライバルは4CV小型車を優先課題とするルノージュヴァキャトルだけだったのです。しかし、プジョーの202の開発は順調であるとはいい難い物でした。絶え間なく起こる停電や燃料の欠如、割り当て原材料を補足するための良品質の材料の慢性的な欠如、さらには'38年には107本あった高炉に対し17本しか機能しない状況の中で僅かに支給される薄板・パイプ・圧伸スチールの欠乏と様々な苦難な状況と戦いながら車を生産するしかなかったのです。

しかしその中で、この 202 は、終戦直後、プジョーが唯一造った車(74,000台)であるとともに、プジョーを戦後ささえた車とも言えるでしょう。その貢献度は計り知れないものがあります。1948年に202の後継者203がデビューし、その翌年1949年に戦前、戦後と跨いだプジョー202は、104,126台をもって、その生産の幕を閉じることとなりました。

終戦直後のプジョーは、まさに新たなる挑戦だったこと言う事には間違いがないといえるのではないでしょうか。。。203の出現で、新たなる時代。戦後のプジョーが始まったといえると思います。