1895年からモータースポーツの世界を離れていたプジョーですが、アルマンが独立してしばらくたった後、入れ替わるようにしてリオン・プジョー(実用的な小型車を生産)の時代となりました。
そして、そのリオン・プジョーが、レースを積極的に取り組むようになったのです。
「リオン・プジョー/自動車レース」リオン・プジョーのドライバー兼技術者のジュール・グーとジョルジュ・ボワロの2人の貢献が高く、リオン・プジョーに多数の勝利がもたらされました。
1905年に開催されたフランス雑誌ロト主催の小型車レース「クープ・デ・ロト」から参戦しました。参戦当初は、3位という順位に甘んじていたプジョーは、1909年、ジュール・グーの駆るモデルが2位となり、翌年もイスパノ・スイザに次いで、2位になりました。しかし、この年で、イスパノ・スイザは、退いてしまいます。そこで、優勝することを目標としているグーとボワロは、1909年に優勝したイスパノ・スイザのエンジニアなどの協力を得て、1912年のAFCグランプリに向けて、レーシングカーの開発をすすめました。開発された車は、吸排気それぞれ2つのバルブが45゜の傾斜角をもって配置。
世界初のDOHC機構を持ったφ110×200mmの7,598ccのエンジンで、開発当初は、148HP/2200r.p.mでした。
そして、改良され、最終的には、178HPとなり、最高速度も190km/hを記録しました。
プジョーは、この車で、1912年、念願のACFグランプリで勝利をはじめとする様々なレースでの優勝を手に入れることになりました。
1913年には、インディアナポリス500マイル・レースで、ヨーロッパ車初の勝利も獲得しました。その後、その高性能DOHCをのせたタルガ・フローリオで勝利をあげ、その活動は、1919年までレース活動は、活発に行われたそうです。